ウミンチュって一体何?

 今でこそ巷では、「海人Tシャツ」や「海人ステッカー」などの石垣島のお土産や、マリンスポーツのブームで、ダイビングや釣りをやっている人たちを中心に、ウミンチュウミンチュともてはやされている(?)ようですが、ウミンチュって一体何なのか、ちょっとお勉強してみたいと思います。

ウミンチュ

 沖縄では漁師は、「ウミンチュ」「海人」と呼ばれています。ウミンチュとは、海からのもので生活する人のことを指します。

 もともと沖縄は、農業をやっている人が殆どで、ごく一部の人たちが、海からのもので生活していました。海は農業と違って、土地という財産を必要とせず、また山のように誰かの持ち物と言うわけでもないため、貧しい人が海からのものを売って生活していたのです。「ウミンチュ」は、最下層の職業の一つでした。ですから、「ウミンチュ」というのは一種の差別用語だったようです。糸満という街が沖縄本島南部にあります。昔から漁業で栄えていた街で、沖縄本島以外の離島では、「イトマン」という言葉は、「ウミンチュ」とほぼ同義に使われます。今でも沖縄、特に那覇の年長の人たちの間では、「イトマン」「ウミンチュ」は、やや(かなり?)蔑視を含んだ言葉です。

ヤーのシタ

 昔は海は現在のように漁業権で守られているわけではなく、誰の物でもありませんでした。しかし誰もが漁を行っていいというわけではなく、暗黙のルールがありました。「ヤーのシタ」(家の前の海)といって、自分たちの集落の前の海は、自分たちの海であるという考え方です。よそから来たウミンチュが、その海で漁をする際には、「ウミガネー」と呼ばれる入漁料を払わなければなりませんでした。沖縄では、この考え方は今でも根強く残っていて、漁協の組合員でなくても、家の前の海から、おかず程度の魚介類を獲るのは暗黙の了解として、うるさく言われることはあまりありません。しかし、環境汚染や乱獲によって魚も減り、またお金が海と深く関わりだした現在では、これが漁業権や漁業調整規則を執行する上での様々なトラブルの引き金となっている一面もあります。
 また、昔は、ここに流れ着いた漂着物なども、その集落の物となりました。昔は特に貧しかったので、浜に流れ着く物も宝物だったそうです。現在の石垣島でも、田舎の方の年配の人などは、材木やちょっとしたものが必要になると、浜に探しに行く習慣があります。

ウミンチュの歴史

 水中眼鏡は糸満漁夫が発明したと言われています。それまでの潜水漁師たちは、水面に油を撒いて、静かになった水面から水中を見て見当をつけて潜ったといいます。
 水中眼鏡の発明で、糸満漁民は飛躍的な漁法の発展を遂げました。沖縄本島の「イトマン」たちは、明治のころから全国各地、そして世界中に拡がっていきます。遠くはオーストラリアやアフリカまでも遠征したそうです。有名な、「廻高網」「アギヤー」と呼ばれる漁法です。大型の網を水中に設置して、多人数の潜水夫で魚群を追い込んで魚をとる漁法です。数回の操業で、そのあたり一帯の魚を根こそぎにしてしまうほどの威力を持った漁法でした。
 現在は宮古の伊良部島・佐良浜に一グループ残っているだけですが、当時は各地に「イトマン小屋」と呼ばれる仮の掘っ立て小屋を作り、そこを拠点に住み着いて漁を続けました。いわば海のジプシーのような暮らしです。住み着いた土地では、地元の有力者と話をつけ、ウミガネーを払って操業しました。しかし、日焼けして顔は真っ黒、髪は真っ赤、顔つきも彫りが深くて土地の人とは全然違う余所者の彼らが、「アギヤー」漁法で、地元の漁民たちには信じられないほどの漁獲を揚げるのです。はじめはウミガネーを貰って快く操業を許可した地元の漁師たちも、その水揚げを見ればやっかむのは当然で、リンチされたり、追い出されたり、水産業者に騙されたり、様々なトラブルがあったようです。事件の記録は各地に残っているようです。現在でも日本各地に糸満漁民たちの子孫は住み着いているそうです。そのころ石垣島にやってきた糸満漁夫の子孫がいまの石垣のウミンチュで、「シカイトマン」(石垣四ヶ字に住むウミンチュの意味)と呼ばれています。石垣でも昔はかなり虐げられたそうです。

ヤトイングヮー

 「アギヤー」漁法には、素潜りでの過酷な潜水作業に耐える大勢の潜水夫を必要としました。当時の沖縄では、人身売買に似た、「イトマン売り」と呼ばれる制度(?)のようなものがあり、本島北部の貧しい農家の子供たちは、イトマン漁民の下に、一人いくらで引き取られていきました。このようにして買われた子供たちを「ヤトイングヮー」(雇子)と呼んでいたようです。「ヤトイングヮー」は20歳になると、船か奥さんを貰って親方の下から独立することが出来るのですが、多くのヤトイングヮー達は、独立後もウミンチュを続けたようです。このようなヤトイングヮーの子孫もまた、石垣のウミンチュには多いようです。この「イトマン売り」「ヤトイングヮー」は表向きは禁止されたのですが、戦後もしばらくは残っていたそうです。沖縄では年配の人たちは子供の頃、悪いことをすると、「イトマンに売られるよ!」とか、「イトマン売りが来るよ!」などと言って脅かされたそうです。

アミモト

 ウミンチュ達は、アギヤーのようなシンカワザ(グループ作業)で仕事をした場合、平等に分配していました。これを「グーナサー」といいます。しかし、完全に平等と言うわけではありません。船の持ち主は2人分とか、網の持ち主は何人分とか、あらかじめみんなで相談して決めておき、道具の持ち主には、その維持費として余計に分配されていました。この「グーナサー」は、今でも石垣のウミンチュがシンカワザをする際には常識となっています。
 そして、これを利用した「アミモト」という業者(?)が出て来ました。アギヤーに使う網は、非常に大きな網で、とても高価なものでした。ウミンチュにはなかなか買うことが出来ません。そこでアミモトが、ウミンチュたちに網を貸して、水揚げから網代を取るのです。また、その網で獲った魚をウミンチュから買い上げて販売する、仲買のようなこともやっていたそうです。石垣にあるカンブクヤー(かまぼこ屋)のいくつかは昔はアミモトで、ウミンチュから買い上げた魚をカマボコにして売っていたそうです。アミモトはこのような水産物加工業のようなことも行いました。アミモトはこれによって利益を上げ、ウミンチュが船を作る時に資金を貸したりする、銀行のような役目もしていたそうです。
 現在の石垣のウミンチュのハーリー組(ハーリー競漕の際の組み分け。旧暦の五月4日の海神祭に、中一組・中二組・東一組・東二組・西組に分かれて船を漕いで競漕します。)は、もともとは各ウミンチュの属するアミモトごとに分かれて競漕したのが始まりだそうです。
 アミモトはこのようにして、今で言うなら漁協のような役割をしていました。

潜り漁の種類

 このようにして、日本全国、そして世界を股にかけて漁を続け、世界の漁業に影響を与えたと言われるイトマンウミンチュですが、イトマンウミンチュの漁のルーツは「潜り」といえると思います。

 石垣では、潜り漁は色々と区別されています。

大まかに分けて、下図のような感じになります。

電灯もぐり

 僕のやっているのは、素潜りの夜間潜水銛(電灯もぐり)です。これは、夜、水中ライトとモリを持って海に入り、素潜りで魚を突いて獲るという漁法です。

 そうは言っても読んだだけではどんな具合か分からないと思うので、図を描いてみました。マウスで描いたんで、ちょっと分かりにくいかもしれませんが、漁の様子はこんな感じです。夜は、寝ている魚もいるし、眠らない魚でも動きが遅かったり、若干、注意力が散漫になっている魚が多いのです。それに暗いとこちらの様子が相手にわかりにくいので、昼間より突きやすいのです。

電灯もぐりの歴史

 ウミンチュのおじいたちによると、電灯もぐりの歴史は多分、五十年くらいにはなるのではないかと言う話です。戦後、乾電池式の懐中電灯が入ってきてから始まったようです。最初は金属製の懐中電灯に、ゴムのタイヤチューブをぐるぐる巻きにして防水していたそうです。その後プラスチック製の三気筒(乾電池が3本入る懐中電灯)になり、四気筒になって、現在のオートバイのバッテリーを使用する、水道管用の塩ビパイプで作った手製の水中ライトに変わったそうです。
 また、昔はウェットスーツもなく、冬はとても寒かったのですが、みんな貧しくて、今日海に行かなければ明日食べるものが無いという生活だったので、焚き火を馬車に2台分も燃やして、体を暖めてから頑張って泳いだそうです。それでも30分ぐらい泳いだら、もう歯がガチガチ震えて(今で言うダイバーのハイポサーミア・低体温症ですね。)、浜に上がって焚き火に当たって、また泳いで、二三回泳いだらもうギブアップだったらしいです。先輩のおじいが話してくれたところによると、初めてスーツが入ってきた時、お金を借りてスーツを買って、その日の夕方からスーツを着て泳ぐ練習をしたのですが、全然寒くないので本当に驚いたそうです。それでそのまま三気筒を2本持って仕事に行き、朝まで泳いだのですが、明け方帰ってくると、浜に部落の人が見物に来ていて驚いたということです。その晩のことは決して忘れないといつも言っています。当時、郵便局長の給料が20ドルくらいの時代に、一晩で18ドルだったそうです。

 電灯もぐりの始まる前は、「イサリ」といって、大潮の夜、干潮になってから、鉄パイプに石油を染み込ませた布を入れて芯を付けた松明で、潮溜まりを照らして歩くことしか出来なかったそうです。「イサリ」は、その後さとうきび(パインだったかな?)の技術と共に入ってきたカーバイドと呼ばれる燃料を使うようになり、現在では電灯もぐりで使われている水中ライトと同じように、オートバイ用のバッテリーを使用した物が使われています。現在の「イサリ」は、レジャーの域を出ないものですが、昔は魚も多かったので、それでも十分仕事になったそうです。
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